六本松の様変わり | 福岡市の脳神経外科「薬院河島脳神経外科クリニック」

六本松の様変わり

日記

皆様こんにちは。福岡市中央区の薬院河島脳神経外科クリニック院長の河島です。本日は六本松の様変わりについてお話ししたいと思います。

35年前の六本松

最近六本松に住われている患者さんが来院されました。その際に昔の六本松の話題になったので非常に懐かしく思いました。今回は激変した六本松の街並みについて述べたいと思います。
私が九大に入学したのは1988年でした。当時は教養部が六本松にありましたので入学後2年間はそこでモラトリアム時代を過ごしていました。受験勉強から解放された大部分の学生は全く勉強せずに自分の好きな事をして過ごしていました。私の場合はバイトと麻雀でした。主には塾や家庭教師のバイトをしながら生活費の足しにしていました。時にそれでも金欠の際は、護国神社のそばに学生援護会(?)なる場所があって学生向けに日雇バイトを紹介してくれました。百貨店の販売や土方仕事などをやって日給5000円ほど貰いました。麻雀に初めて触れたのは教養部裏手の谷か輝国にあった同級生のアパート内です。即席でルールを教えてもらい卓を囲みましたが、非常に面白くてすぐにはまりました。教養部近くの雀荘「マドンナ」で徹マンをした回数は数え切れません。当時の雀友は今でも付き合いがあり、一生の友人になりました。その多くが麻雀にハマり過ぎたのか、留年をしてしまいストレートで卒業できたのはごく少数です。
彼らとよく行った焼鳥屋が六本松交差点の近くにあり、「天野屋」と言いました。麻雀の後に皆で集まって無駄話をするのが常でした。気さくなご夫婦がお店を切り盛りされていて我々の馬鹿話によく付き合ってくれました。城南線の拡張工事の影響か、いつの間にか閉店してしまったのは残念でなりません。
当時の六本松は交通の便という点では比較的孤立しており中心部からのアクセスは良くなかったです。天神に出る際に使えるのはバスのみで、城南線経由で行くか国体道路経由で行くか悩むこともありました。もちろん、元気な若者は徒歩もしくは自転車で天神まで行きました。35年前の六本松は教養部を中心に暇を持て余した学生が生息しているカオスな街だったという印象が強いです。

現在の六本松

しばらく福岡を離れていたので先日久しぶりに六本松を訪れました。教養部が移転し、地下鉄が開通した影響でしょうか、街は様変わりしていました。教養部跡地には立派な司法関係の建物が移っており、周辺にはマンションやスーパー、ショップなどが整備されていました。家族連れや若者が多く、活気に満ちており圧倒されました。蔦屋書店とスターバックスが大通りに面したビルの2階にあり、ゆったりした空間でお客さんが思い思いにくつろいでいる様子も印象的でした。
35年という月日の流れを実感せざるにはいられません。ここまで街並みが変化するとは、当時は想像できませんでした。この変化が良いか悪いかは別にして、私にとってはカオスであった六本松がなくなってしまい少し寂しく感じています。